北会津村誌 -070/534pag
.82ートルの高さがあった。適確な数字ははじき出せないが、これにも泡の巻以下の捷水路による下刻作用があったようにみえる。
宮古、真渡の真中付近で187.415メートル、真渡船場で201.5メートル、さらに蟹川橋のちょっと下流で201.17メートルを計測した記録がある。これはさらに下流のものより低いが、計測の不確実さかも知れないが、或は河川の広狭、氾濫度などの原因があるのではないかと思う。
高田橋では219.44メートル、これは量水標水位が209.94メートルであるから、9.5メートルの増水ということになる。しかし計画の河床高はその当時既に3.5メートル高くしてあり、さらに堤防はやや高くしてあるので、今後の防災は耐え得るのかと思う。
さらに上流で237.98メートルを測り、馬越では269.24メートルとなっている。馬越の○点は265.05メートルであるから、ここでは4.16メートルの増水ということになる。現在の馬越ダムの最低魚道底が標高262.50メートル、排砂門底の高さが、右岸263.00メートル、左岸263.00メートル、大川堰取入口底高が263.15メートルであるから、昭和33年、34年と共に9月に襲うた台風では、約5メートル増水して、岩崎堰の取入口が土砂で埋積したが、大正2年の洪水の状態とあまり大差がなかったように思われる。
その後間もなく大正6年10月1日の洪水実測によって、改修河川の流量調査が行なわれたことがあるが、その記録をみると、大正2年8月27日の136ミリ降雨量に対して、これが連続6時間降りつづけた結果によるものとして、一方里当降雨量3,336立方尺、この55%が流出したものとして1,834立方尺、小谷における最大流量を110,000立方尺と算出したのがみえる。