北会津村誌 -071/534pag

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

 宮川は高川の大正2年8月27日の92.9ミリを算出の基礎にして、流域面積20,779万里、平地面積6,116方里、流路10里28町とみて、一方里当り降雨量2,840立方尺、その40%を流出量とみれば、一方里当り1.136立方尺の洪水量があったことになる。この種の計算は苦心の割りには、確率は必ずしも高くはないと思うが、小谷で1,834立方尺、宮川1,136立方尺と、何れも洪水量が近似値になってでている。この種の基礎的算出は、もっと数多く、綿密な資料で算出しておいて、洪水の資料にしたいと思う。ここでは一つの試算として、大正2年の降雨の際の洪水量との関係を算出した資料が、たまたま阿賀川河川事務所での依託研究の際、今後の資料に供したいと思ってノートしておいたので、拾い書きしておく。

 大正2年の洪水は会津盆地の洪水としては著大であり、そのために県が災害調査を待って、やがて五ヵ年改修計画を樹立するまでになったのであるから、資料を充分尽しておくべきであるが、このように断片的にしか得られないのは残念である。ただ筆者は鶴沼川流域の、北会津村の対岸である新鶴村新屋敷新田の洪水常習地で育ち11歳でこの洪水に直接あい、堤防が決潰して部落全部が水浸しになった体験をよく覚えている。北会津村の古老にも、この記憶を新たにして、後輩に語り聞かせようとしている人々も多いかと思う。断片的資料を結びあわせても、その洪水の実態がほぼ想定されてくる。それによって盆地底の浸水地域図をつくったのが、洪水の項にのせた分布図であるが、阿賀川改修計画実施前、特に泡の巻捷水路の開さくさえ考慮されなかった当時、勿論日橋川合流地点より下流は、溢水地域として予定され、作物の耕作形態まで変えていた頃であるから標式的洪水といってもよく、低地域には何れも溢水して、旧河底を再現、蛇行の甚しい個所の堤防は決潰するなど、遺憾なく荒し廻った盆地洪水の正体のようであったと思われる。今後これが永くどの程度まで防止できるかが、改修の効果というものであろう。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は福島県北会津村誌編纂委員会に帰属します。
福島県北会津村誌編纂委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。