北会津村誌 -074/534pag

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 分類をとばして、今も氾濫している大川の荒れ川式の河原、それと漸く土堤を築いて限ったものの、まだ河原の生のもの、それに沿う砂土の分布をみると、扇状地氾濫の様態がよくうかがわれる。

 この植質土と、砂礫土との問に広く分布するのが、やや熱化した壌土と、いくらか氾濫の名残を止める、恐らく応永26年(1419)頃か、近くは天文5年(1536)頃までも、洪水にさらわれていたではないかと思われる砂壌土が、村の両側に幅広く横たわっている。この表土は10〜50センチ程度のもので、下部はすぐ砂礫層になっているから、開拓も新しく、元和以後の新田開墾などは、専らこの地域に行なわれた。

 そして中州の中央に、北会津村の主要部として横たわるのが壌土地帯で、表土はやはり薄い所では10センチくらい、厚い所では150センチにも達する。場所によって違うが、下部に直接砂礫層の横たわる所もあるが、砂袋壌土を40センチくらいの厚さにもっていたり、開拓が早くから行なわれた地帯である。

 2、大川沖積地 この説明書によると、川南・館の内・荒井の殆ど全部が大川沖積地で、砂貿の包有が最も多く、東に移るに従って植質を増すとある。これは昔の河床が上米塚の南より、北会津村を対角線に今和泉・鷺林を通って本田方面にぬけたためで、砂礫は上流山地の侵蝕物である。河流の関係上、植質の含量は勿論北部にゆくに従って加わり、下層の石礫に至る深さも増してくるわけである。

 この精査では大川沖積地として神指・中四合と、金屋付近の土壌をとって化学分析も行なっている。現在の分析法と異なってわかりにくいが、金屋については、第四紀新層粘状壌土とし、「相当の壌土と見做すべきものなるも、性質ほ一種の粘状を呈するを以て、粘土質を帯ぶる土壌と称せり、その粘状は細微の砂に原因するならむ」として、次のような化学性の分析表がのっている。

 一反歩含量   窒素   燐酸   加里


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