北会津村誌 -082/534page

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祭っている農の神の伊佐須美神社なども、古くは越後境の御神楽嶽に祭られていたものが、会津盆地の西南にそ びえる博士山に遷座され、明神嶽の中腹遷座を経て、欽明天皇十三年(五五二)会津高田町の南原、現在高天が 原と呼んでいる地点に祭られたと伝えている。恐らくは、それまでの山の神を盆地に農耕が盛んに起って、田の 神として祭られるようになったのであろう。会津に農耕文化のきざしである弥生文化のはいってきた頃の終り頃 と思われる。

 舟が阿賀野川を通じるようになっては、急流で、幾度か舟をかえては、会津盆地へたどりつき、物資と文化を 交流して、会津文化を向上させてきたようである。

 日本の最も古い文献といわれる「古事記」に次のようなことがみえている。
 「大毘古命者、遣古志道、其子建沼河別命者遣東方十二道、建沼河別、与其父大毘古共往遇于相津、故其地謂相津也」
 これは会津の地名起原、開発の歴史を説く時、何時も最初に出てくる言葉である。崇神天皇十年(前八八)四 道将軍派遣のことがあって、父大彦命は高志国、今の越後の国より会津にはいられ、その子武淳川別命は中通り の白河方面より会津にはいられて、会われたというのである。この年代がやはり会津地方の弥生文化の始まった 頃と時代が大体合うように思う。

 しかし、会津地方に農耕文化のはいったのを、大体その頃と想定しても、それがすぐ、当時は旧鶴沼川の氾濫 原、濁川、宮川、大川の複合扇状地の中州に当る、現在の北会津村の地域開発にどうつながるかということであ る。

 会津盆地の開発は、勿論盆地周縁の山麓が早い。縄文式・弥生式の遺跡地は勿論、古墳でも、古い神社、寺 院、共に山麓に集積していて、文化財として指定保存している物件の分布などをみても、一目で盆地底に、ごく


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