北会津村誌 -088/534page
は大亀甲館と呼んでいたものが、全長一二七メートルの東北地方でも、一、二位にある大古墳であることを確認 している。これらは先に「奥州会津青津亀甲古墳調査報告―山口弥一郎―」と題して昭和三十三年二月刊行され 大塚山についても「会津一箕、大塚山古墳群調査報告―山口弥一郎―会津史談会誌―昭和三十三年十二月)に発 表してある。北会津村では田村山部落の東北に、古くから塚の腰(現在は塚越)という塚があって、その大きなものを大塚 と呼んでいた。この地方に大正十一年より十三年頃にかけて大規模な耕地整理が行なわれ、西の方の小さい塚は 崩してしまったが、この大塚は古墳という伝承もあって、部落民の意志によって保存することになり、耕地整理 の完成後、有志で一部発掘してみた。
形は南に低い高さ一.一五メートル、長さ四.八五メートルの前方が幅一二メートルでつき、後円は径がほぼ 一七.四から二〇メートル、高さは二.一五メートルであるが、さらに発掘後六〇センチほど盛りあげて、壇上 に稲荷様を祭ってある。後円の中央、深さ一メートル余には、玉石で積んだ径一.七メートルの円形(方形か)の石槨があって、内部 から鏡一面、素文鏡というもので半欽、もう一面は、当時東北地方の古墳からは、まだ発見出来なかった直径九 七センチの内行花文鏡で、円鈕の周囲に大きな鋸歯文があり、内区を六孤に分けて珠文点を配し、外区には櫛歯 文がある。発掘した時は完全であったらしいが、現在は細破されている。その他ガラス製の小玉、管玉は直径○ .三センチほどの細型、直刀は目針穴の附いた長さ一五.六センチのもの、これも現在幾つにも折れている。そ れに土師器の破片も出土した。
明らかに古墳であることが確認されたわけで、福島県教育委員会では、これを県の文化財考古資料、田村山古