北会津村誌 -091/534page
じゅうのように、一皮むけば下部は砂礫層が横たわっている。その開墾には、この砂礫の片附場に困り、俗にだ んくらなどと呼んでいる壇がたくさんある。この中から古墳を選りわけることは、田村山古墳のように、出土品 でもない限り、確認は容易でない。盆地周縁より開発の後れたことは勿論であるし、盆地排水口に近い低地とい っても山麓に近く、肥沃な、会津坂下北部の青津亀甲古墳のような、大規模なものも見当らない。記録をたどってみると、小松部落の東に四つ壇という部落があり、もと八つ壇といって壇が八つあり、開墾さ れて四つになって、四つ壇と呼ぶようになったと伝えている。これが古墳群ではないかと思われるふしがある。
ここに石の枕という伝説が残っているが、(民俗の項)この石の枕は 古墳の中にあった石槨の内の石枕か、磨製した石棒の類が伝えられて、 伝説になったではないかとも思われる。この対岸の飯寺にも、狐壇とよ ぶ古墳と伝えるものがあるから、対比しても考えられる。 新編会津風土記の下荒井の項「村西四町にあり、高さ一丈余、周二十 八間、来由をしらず」とある大壇も、或は古墳かも知れないが、開拓の 砂利のだんくらとみる方が確実かとも思う。これも新編会津風土記にみえるものであるが、中荒井村東にある高さ 一丈ばかり、周囲四十間ばかりという東西に並ぶ四つ壇は、風土記には 「慶長の頃逆修念仏の為に築きしと云」とあるが、或は円墳の類である かも知れないと思って調べてみたが、境界争いからできた境壇であるこ とがほぼ確実となった。