北会津村誌 -092/534page
大島部落の南の二一三・八メートルの水準点のある塚を、古くから上人壇と呼んでいる。一辺八メートルほど の、ほぼ八角形で、中央の高さが二・四メートル、これほ新編会津風土記によれば墳墓とあり「古塚、村南八町 四十間余にあり、高さ一丈、周三十間余、土人上人壇と称う」とある。この東一六メートルほどに、やや小さい 長径八メートル、短径七メートルの、俗に書物壇とよぶ塚があり、上人壇 の円墳か角墳に対して 陪墳のような形にみえる。しかし、この上人壇の 方は中央、深さ約五〇センチの所から支那古銭やうわぐすりをかけた壺が 出土したことがあり、この古銭は、 最も古いもので開元通宝で七一三〜 七一八年代のものであるから、会津 に於ける古墳時代を想定するには、 あまり無理はない。しかし、他は支 那の古銭といっても、その後にくる 時代の新しいものであり、この出土 壺は、古墳時代のものとは思われな い。古墳としても、その後、供養壇 的に祭りつづけていたものかと思う壇の群として見事なものは、宮袋 の東南にある大小十三個で、大きな
上人壇 一辺8mのほぼ八角形(東の一辺のみ16m直線) 高さ中央 2.4m 西二辺、北1辺田圃に面する。
書物壇 上人壇の東に16.5m隔てて陪墳の形である。 長径8m短径7m但し南に2m出て石碑あり。