
大島の上人壇
大島部落の南の二一三・八メートルの水準点のある塚を、古くから上人壇と呼んでいる。一辺八メートルほど
の、ほぼ八角形で、中央の高さが二・四メートル、これほ新編会津風土記によれば墳墓とあり「古塚、村南八町
四十間余にあり、高さ一丈、周三十間余、土人上人壇と称う」とある。この東一六メートルほどに、やや小さい
長径八メートル、短径七メートルの、俗に書物壇とよぶ塚があり、上人壇
の円墳か角墳に対して 陪墳のような形にみえる。しかし、この上人壇の
方は中央、深さ約五〇センチの所から支那古銭やうわぐすりをかけた壺が
出土したことがあり、この古銭は、
最も古いもので開元通宝で七一三〜
七一八年代のものであるから、会津
に於ける古墳時代を想定するには、
あまり無理はない。しかし、他は支
那の古銭といっても、その後にくる
時代の新しいものであり、この出土
壺は、古墳時代のものとは思われな
い。古墳としても、その後、供養壇
的に祭りつづけていたものかと思う
壇の群として見事なものは、宮袋
の東南にある大小十三個で、大きな

上人壇 | 一辺8mのほぼ八角形(東の一辺のみ16m直線) |
| 高さ中央 2.4m |
| 西二辺、北1辺田圃に面する。 |
書物壇 | 上人壇の東に16.5m隔てて陪墳の形である。 |
| 長径8m短径7m但し南に2m出て石碑あり。 |