北会津村誌 -093/534page

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大島上人壇出土の壺
大島上人壇出土の壺

ものは径二七メートルほど、これほ何か十三仏信仰による 構築ではないかとも思われるが、現在は塚の上に小祠、石 塔すら祭ってはない。旧鶴沼川跡の氾濫地で、開墾のため のだんくらとみえるが、何か信仰・供養の意図もあったの か知れない。現在は何も伝承は聞かれない。

 このように、塚は多いが古墳として確認できるものほ田 村山古墳で、しかも小さいながら日本特有の前方後円墳の形態も、破片になったとはいえ、出土品の保存されて いることは、北会津村の古墳時代の開拓が、相当進んでいたことを物語る貴重なものである。

四、恵日寺のいなばつ政治

 中央の政治では大化二年(六四六)大化の改新の詔がでて、班田制が始まり、条里制が布かれるが、みちのく では、まだ豪族が割拠した、古墳時代がつづいていたかと思われる。天平十三年(七四一)国分寺、国分尼寺を 造らしめたとあるが、会津地方ではまだその伝承を聞かない。仏教の伝来については梁の僧青巌が根岸の里に欽 明天皇元年(五四〇)庵を結ぶとある。現在の高寺にあった、塔寺恵隆寺の前身であろうといわれるが、現在そ の遺跡をみつけることは容易でない。これが史実とすれば、日本へ仏教が伝来した欽明天皇十三年より十年ほど さかのぼることになり、裏日本方面からの伝来とも思われるが、確証はない。

 会津地方には、国分寺の名のつくものはなかったが、それに代るべきものは、現在磐梯山麓の本寺にある恵日 寺ではなかったかと思わせるふしがある  


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