北会津村誌 -094/534page
恵日寺の創建については、これも寺院縁起で、すぐ史実とするのは容易でないが、大同元年(八〇六)磐梯山 はもと病脳山といって、この年に大爆発し、その翌二年(八〇 七)空海が勅を奉じてこの地に来、秘法によって魔魅をさけ、 災異鎮護のため恵日寺を起すとある。磐梯山の大同元年爆発は 日本の災害年表などでも認めているから、一応信じられるとし ても、空海が会津に来たことは考えられない裏付けがあるから 現在も恵日寺に墓のある徳一が来て、その頃恵日寺を建立した と思われる。(拙著磐梯山信仰と会津恵日寺、会津学会報、昭和二 十七年十一月、東北民俗誌に転載)最も盛んな治承・養和の頃 (一一七七〜一一八二)は、子院三千八百坊、寺領十八万石、 会津四郡の地の大方を寺領としたと伝えている。この禄をどう いう所で徴収したかであるが、現在もなお名残を止めている、 磐梯明神や、厩山から来たといって秋に集めているいなばつ、 これは稲の初穂の意で、もとほ稲二把をあげていた。寺院政治 であったろうから、このような献納の形式をとっていたと思わ れる。(拙著大頭、小頭といなばつ、会津史談会誌、昭和二十 七年十月、東北民俗誌に転載)
どのような形で仏教と政治を組合せ、徴税もし、多くの僧兵を