北会津村誌 -100/534page
荒井の二城をもち、所領あわせて一万石、荒井がそ の半分五、〇〇〇石ということになる。元徳元年下荒井の地に工を起して、奉行は小田官 左ヱ門、落合兵馬、音高内膳であったので、内膳堀 という名が残っている。(この項坂内萬の書上げに よる)
「奥州会陽中荒井旧記」(貞享二年― 一六八五) によると、新編風土記と規模がややちがって、次の ようにみえる。「村の北に城跡あり、本丸二十八間、東北西に土 手を築く。堀水帯の如くにして土手の腰を廻る。東 北西に二の丸あり、その城形凸の字の如し。東西二 町十八間、南北五十九間、堀水も亦三方を周りて本 丸其の中にあり。北方に亦出丸あり、東西四十八間 南北十九間、是より三の丸なり。又三方に堀あり、 今過半田となる。南に追手あり。」云々。(復元図 下荒井の項にあり)
築城に際して、城内の本丸の塁上、東北の南に稲荷