北会津村誌 -101/534page

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祠を祀り、三の丸西北の隅には八幡宮を勧請した。また城の東部一角に康寧山宝寿禅寺を建立した。これは康安 二年(北朝で一三六二)の鐘名に次のようにあるのでわかる。

 
奥州会津大会津下荒井 
康寧山宝寿禅寺洪鐘一口
檀 那  左金吾盛 久
住 持恵 静
大 工景 広
康安二年壬寅仲呂

ここに左金吾とあるのほ左ヱ門尉の意、康安二年は正平十七年に当る。仲呂は四月の意、この鐘は慶長十六年 (一六一一)の大地震に寺が倒壊したので、小田山麓の恵倫寺に移した。

 その後応安元年(一三六八)富田氏五代の祺祐が盛んな塔供養を営み、康暦元年(一三七九)には五重の塔を 建立したと伝えている。今でもその五重の塔跡という字名に、塔の内、塔の下などが残っている。

 同じ康暦元年に、富田四代宗祐の弟祐之の子仁範が蓮華寺を建立している。相当大規模な築城で、やはり古 くから、中州の開拓の要衝を占めていたと思われる。

 3、若松城の構築と城下町の形成 北会津村の直接の開発史ではないから略記にとどめるが、会津藩領として その治下にあったのであるから、会津若松市に鶴が城、これにはいろいろの名称があって、文部省が文化財保護 委員会で史跡に指定する時は若松城とした。建久三年(一一九二)葦名氏の祖佐原義連が最初に来封した頃は、 勿論居城もわからないし、義連が会津に果して来ていたのかどうかもはっきりしていない。その墓地というのが


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