北会津村誌 -102/534page

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耶麻郡熱塩加納村の半在家にみられるのが貴重な証跡である。

 永仁元年(一二九三)佐原三代光盛の世に、佐原氏が相模の国芦名に住むので、葦名氏と改めた。七代直盛、 康暦元年(一三七九)会津に下向して幕の内に住むとある。三年住んで永徳元年(一三八一)融通寺町小館に移 る。さらに至徳元年(一三八四)小田に移り、黒川と改むとあるが、これが現在の若松城の前身であり、会津若 松市形成になる。

 小田山・小田垣という地名が残っていて、現在の若松城よりは小田山寄りにあり、小田垣の垣は関西方面で垣内 と書いてかいとと呼び、堀で囲まれた村の区画を指すから、そのような意味と内容をもっていたのかとも思われる

 葦名氏は二〇代の長きにわたって会津の治政に当ったが、天正十七年(一五八九)六月五日義広、磐梯山麓摺 上原の戦に仙台の伊達政宗に敗れて滅びた。翌十八年豊臣秀吉が会津に来訪したことになっている。

 その年秀吉は改めて会津に蒲生氏郷を封じたのである。英邁なので栄転の左遷のような形であったかも知れな い。若松の城下町形成は、実にここから起るといっても過言ではない。戦国の乱世がおさまり、各藩が鋭意、自 分の藩の内政に勤めた頃で、城下町の形成、会津産業の開発など、殆どを蒲生氏郷の功にゆだねているが、これ は日本国中の城下町形成でもいえることで、藩として振興政策を起した時代にも相当する。

 秀吉は文禄二年(一五九三)検地を初めて行なっているが、会津領は最初は七三万五千石とはかられたが、再 検地で九二万石になっている。氏郷は江洲、今の滋賀県の日野の出であるが、天正十六年に伊勢松坂の城主にな り、二ヵ年にして会津藩に移ったことになる。

 まず今まで黒川と呼んでいたのを若松と改め、黒川城を鶴が城と呼び、廓の内外を整備して、七層の天守閣を 築いたとある。この天守閣は後に五層に改められ、古い構築の様子はよくわからない。天守の石垣その他に残る

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