北会津村誌 -103/534page

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のづら石積みの構築はその頃のもので、ほぼ現在の若松城の輪廓はその時出来たものと思われる。現在の若松市 の城下町としての構成は殆ど氏郷の時代になっている。城廓は内城・外城に分け、これを武士の家中町として城 下町は専ら商店町で、市目をおくなど経済は繁栄した。北会津村もその頃から、蔬菜補給地としてのさえんばと しての位置を確固なものとしたと思われる。

 氏郷は四〇才で、文禄四年(一五九五)二月七日京都で病死し、その辞世というのが、若松の興徳寺裏の分骨 墓地の前に刻まれて建っている。英雄の末路の哀愁をそそる感がある。
 限りあれば吹かねど花ほ散るものを
      こころ短かきはるのやまかぜ
会津藩主はその子秀行に継がれたが、慶長三年(一五九八)宇都宮に移封になり、越後国から上杉景勝が一二〇 万石の領主となって来封した。会津藩の前後を通じての最高の禄高であり、領土は福島県の中通り地方まで広く 及んだ。

 真渡の五霊神社はもと五郎神社で、鎌倉権五郎景政を祭ったと伝えているが、上杉氏も景政を祖としていると いっていたから、或はその辺から伝承が生れているかも知れない。中通りの矢吹町三城の目、須賀川市などにも それに関する伝承が流布している。

 景勝は豊臣秀吉の幕臣で、徳川家康の独走を喜ばなかった。それが慶長五年(一六〇〇)二月からの神指城の 築城につながっている。最初は北田広盛の館跡であった大川と日橋川の合流する中州の湯川村北田に、築城の予 定であったらしいが、条件が揃わないので神指の如来堂にかえたと伝えている。古くは下荒井村に属し、北会津 村の旧範囲に包含される地域である。工事を急ぎ、東山慶山より石を運び、その年の六月までほぼ本丸と二の丸


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