北会津村誌 -104/534page

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を完成するまでになったが、石田三成の家康に対する反旗挙兵となり、上杉築城のうわさを聞いて、既に家康は 会津攻撃に向っていたが、江戸よりやや北にきた、小山で、進んで会津を撃ったらよいか、引きかえして、石田 と戦うべきかを議した、所謂日本歴史を変えるほどの小山大評定があって、引返しに決断、関が原の合戦になっ た。

 上杉氏は翌六年(一六〇一)出羽米沢三〇万石に削封されて移り、再び蒲生秀行が宇都宮より来封した。 秀行は関が原の戦後であるだけに内政に意をそそぎ、各部落までの下部組織を、政所・小政所といっていたのを 大割元とし、郷頭をおき、その下の各部落の世襲の肝煎を小割元という名称に改めた。

 旧鶴沼川が現在の大川に流路を変えてからの旧河跡の河原・湿地が、北会津村の西部に広く横たわっていたの で、そこに開墾、新田をつくり始めた。この大規模に具体化したのは元和九年(一六二三)頃からであるが、俗 に十二新田と呼ばれる開発が、この頃からの開発系統をひいている。そのため寛永十三年(一六三六)には田奉 行などもおくようになっている。

 もう一つ顕著なことは、上杉景勝が文禄四年(一五九八)に「金一分判」を使いはじめているのでもわかるが この頃まで館に寄った豪族に対して、村人は、いくらか、農奴的な関係が残っていたではないかと思われる。新 田開拓がすすみ、融通経済が発達してくるにつれて、中世的農民の性格から解放されて、自主的本百姓に移って きたのも、この頃であろうと思われる。

 軽井沢銀山は元和二年(一六一五)に発見され、一時中だるみしたが、永禄八年(一五六五)頃から再興して き、下荒井が宿場になったのもこの頃で、道路の中央に堀を通じ、その両側を人馬が通った。

 蒲生秀行は慶長十七年(一六一二)五月逝去、その子忠郷が継いだが若くて亡くなり、寛永四年(一六二七)


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