北会津村誌 -105/534page
伊予の松山に移り、加藤嘉明が同年来封、同八年に逝去しているので、在期は短かったが、鉱山開発・道路改修 などの工を起し、その治政はみるべきものがあったようである。郷頭職などの復活されたのもこの寛永五年(一 六二八)で、新田開発も顕著に進んだ。その子明成の代になって、寛永十六年(一六三九)若松城が大改修され、西出丸・北出丸はその時の増築で、 大手などにも手を加えられた。しかし、家老堀主水の乱などがあって、寛永二十年五月封を返納するというよう な始末になっている。
二、 徳 川 の 治 政
1、保科正之の来封 徳川家康は慶長八年(一六〇三)征夷大将軍に補せられているから、この年から徳川の 治政は発足しているわけである。保科正之が最上山形より会津二三万石に封じられたのが寛永二十年(一六四 三)八月八日である。正之は家康の孫に当り、時の徳川将軍三代家光の異母弟であるから、幕府の直藩としての 重要な役割をつとめ、明君で、特に内政につとめ、三代正容の代に、徳川の旧姓である松平と改めて明治維新に 至るまでの長い間の会津藩政の基礎を築いた。来封の寛永二十年の暮十二月、まず民間仕置十八力条を制定して、民の寄るべきところを示している。寛文五 年、山崎闇斎に命じて、会津風土記を書上げさせているが、闇斎ほこれを翌六年にまとめる際、要点のみを漢文 で書上げたため、書上げの詳細がよく伝えられていない。幸いにして中荒井組の書上げの写本を高田組郷頭田中 家からみつけたので、各村の項に採録したわけである。この時の、現在の北会津村の範囲に含まれる村名は次の ようである。