北会津村誌 -107/534page

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の宿場町が栄えてきたが、正保四年(一六四七)駅逓制が行なわれ、駅検断が置かれるようになった。

 2、神社・寺院の整備 保科正之は神祇に対す敬虚の念が厚く、封内の神社・寺院を整備して人心の安定を願 い、寛文六年に会津風土記を完成すると、神仏の混淆を分離し、神仏修験の各道を詮議して、小さい祠などは、 近隣の村の鎮守の境内の整った所へ相殿、併祠などの寄せ宮をし、寛文十二年(一六七二)十月会津神社表を編 して、淫祠を毀却した。北会津村の寄せ宮はその際大規模に行なわれた。しかし名儀上は相殿、寄せ宮をしても 鎮守神は各村の開発と関係が深いもので、一部はこのために混乱を起し、古い空き宮、境内はそのまま残してお いて、村人はひそかに参っていたようである。これが幕末から、明治初期にかけての、神社のもとの境内への復 帰の因をなしている。この詳細は各部落の項に述べてある。

 3、キリシタンの制圧 会津領での一つの残酷物語はキリシタンの禁制による制圧であった。豊臣秀吉は朝鮮 征伐で北九州に駐屯しており、一夜にして思いつきで禁制を布いたといわれている。これが家康以来の政策の為 に、強化して用いられてきた観がある。

 蒲生氏郷は最初キリシタンの信者で、洗礼を受けていたといわれる。保科正之の附家老太田小太夫実次もキリ シタンの熱心な信者であったという。しかし松平家では直藩であるから中央幕府の命をきびしく施行した。それ で各部落に、毎年宗門改帳を提出させると共に、祖先にキリシタンの信者のあった者は、子々孫々に至るまで、 その血統を追って、キリシタン類族改めを行なっていた。

 宝暦六年(一七五六)に書上げられ、田島代官の江川太郎左ヱ門に提出した「陸奥国転切支丹類族存命帳扣」 というのには、下荒井村一人金三郎、鷺林一人センという名がのっている。しかし、猪苗代町方部とか、高田、 永井野村、田島粟生沢などのように、集団して多くあった証跡ほ見当らない。北会津村などは、一応は禁制がき

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