北会津村誌 -108/534page
びしかっただけのようである。4、大沼郡より会津郡へ 古事記に相津の地名縁起がのっているが、続日本紀の養老二年(七一八)に白河・ 石背・会津・安積・信夫五郡を割いて石背国を置くとあり、会津の名が文字ともに見えてくる。この石背国を廃 して陸奥国に属したことがあるらしいが、新編会津風土記にも詳ならずとある。後に耶麻・大沼・河沼郡はこれ より分れたが、この三郡に比しても残る地域が広いから大会津郡ともいったとある。弘長三年(一二六三)に造 った南青木組湯本村羽黒神社の神器の銘にそう見えている由である。寛永の頃(一六二四〜一六四三)より会津 郡の名が失われて、誤って大沼郡と称したと、このことも新編会津風土記にのっている。寛文五年書上げの萬改 帳というのが写本として、高田組郷頭の田中家にあったが、明らかに大沼郡中荒井組とみえる。中荒井村旧肝煎 千葉薫宅の寛文九年の「大沼郡中荒井村新田当免之定」にも、その通りにある。石原の旧肝煎遠藤一嘉宅の古文 書を一通り目を通してみたが、天和元年(一六八一)の「大沼郡石原村当免定」にもそのようにみえている。 元禄八年(一六九五)には会津郡となっている。この間に訂正されたのか、称呼を変えたかしている。
実はこれは誤りであったらしく「寛文中肥後守正之此誤を正し、始て古名に復せり」と風土記にみえる。貞享 二年(一六八五)の風俗帳には会津郡とあるから、この改めた年次が前後しているのもあるので、藩制によって 区分を改めるということでなく、逐次、手のとどくところから、この頃に誤を正して会津郡としていったらし い。会津郡から北会津郡を分けたのは、明治十二年(一八七九)郡制が布かれた時である。4、郡役所・郷頭・肝煎制 古く地方行政は政所・小政所という頭に統治させていたようであるが、慶長三年 (一五九八)上杉景勝が入部して、秀吉方が奥政所。北政所などを用いはじめたのを憚って、代って大割元・小 割元を置いたとある。大割元は会津領を四分して、耶麻郡と大沼郡の一部を小山の坂内憲勝、会津郡を伊南の佐