北会津村誌 -109/534page

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野外記、大沼郡の一部を滝谷の山ノ内治部少輔、耶麻郡の一部と蒲原郡を津川の二瓶宗兵衛の四名を任じたから 後の郡役所に匹敵するものであった。現在の北会津村は坂内憲勝の大割元下にあったのは当然である。

 この下に郷頭を置いた。その下の肝煎が小割元である。

 正保二年(一六四五)保科の入部により、大割元を廃して郷頭といい、組に区分して、そこに一人、給料七石 二人扶持、苗字帯刀御免という役柄で、代官の職掌と同じくらいの内容で郷中を取締ることにした。肝煎はその 下にあって世襲の部落長、今の区長よりは、封建社会であるから、権限が大であった。これは幕末の嘉永五年 (一八五二)の記録からであるが、会津郡中荒井組郷頭小森惣右ヱ門、会津郡橋爪組の郷頭薄時右ヱ門、時の大 沼郡高田組の郷頭が田中弥三郎とある。

 貞享二年(一六八五)の田中郷頭の「地下万定書上帳」の中に、「郷頭勤方の事」という文書がみえる。「奥州 会津新鶴村誌」「会津高田町誌」にあるからここでは載せないが、その下役の肝煎と共に、上納物の割当て、訴 訟事件の代官への取次ぎ、その他詳細の職務が割当てられていた。しかし享保の頃(一七一六〜一七三五)郷頭 騒動があってからは、名目上のみあって、行政上はあまり関係しないようになった。

 最後まで村の実質上の上納、その他の行政を掌っていたのは世襲の肝煎であった。この「肝煎勤め方」という 文書もあるが、前記の村誌、町誌にあるので略しておく。

 この肝煎の下に地首・老百姓などの村役人がいて補佐していた。

 さらに五人組というのがあった。その名称は慶長二年(一五九七)の高札に初めてみえるそうであるから、会 津藩では蒲生秀行の頃からあったと思われる。古い律令制度の五保制のように、戦国の後をうけて、治安の取締 りを第一とし、キリシタンの防遏にも当て、御法度・掟・触書などの徹底を期していた。これには五人組帳とい


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