北会津村誌 -110/534page
うようなものがあって、キリシタンの宗門人別改帳と共に、毎年役所に提出していた。これらを地方的に統べるのが、上杉時代の大割元であり、後の郡役所(こおりやくしょ)である。会津盆地底のほぼ中心部を占め る中荒井村に郡役所があって、その下に高田代官所・飯寺代官所があったことを、新編会津風土記に記載してあ る。この高田代官所が中荒井奉行配下になったのは天明八年(一七八八)からのことらしい。南青木組飯寺村・ 高久組高久村・坂下組坂下村・高田組高田村の各代官を総べていた郡奉行が常詰していた。その知行が一五〇石 以上、士分の役所勤め一名、割元二名、小役四名、公事方、社倉方、堰堤方、検地・竿頭・検地方、大川川除方 など総勢二五名余、他に同心小頭一名、同心二名の規模のものであったとある。社倉跡というのは位置がわかる が、郡役所のあった場所は、中荒井村東とあるだけで、敷地の輪郭などは、今明確にできない。
5、宿駅と交通路の発達 北会津村に南北の大幹線道路の開けたのは、つい先年の構造改善によるもので、南 北へはあまり整った道路はなかった。これは盆地中央を南北に連ねる、山麓都市を結ぶものがなかったのによる であろうと思う。これに対して宮川・鶴沼川が西縁に、大川が東縁に、大きな交通障害をなしているにもかかわらず、山麓の城 下町若松と高田町を通じるもの、新鶴村は、後に新田・鶴野辺を合併したもので、中心的都市とてなかったが、 軽井沢銀山が開発されてから、会津藩としても積極的に交通路を整備したため、後々まだ銀山街道とか、鶴沼川 に架した橋を銀山橋ともいうように、この二本の東西横断交通路は早くから主要交通となっていた。
渡し場に橋が架せられたのは明治以後であるが、中州の村々からは、大川が荒れ川式であるため、河原に道路 をつくって、簡易な船橋などをつくって、洪水の際以外は、比較的容易に人馬のみは渡れたので、北には真渡、 中央には蟹川・中荒井の両渡し場、南には下米塚・川原町・三本松・上米塚などに、主に船橋が架せられていた。