北会津村誌 -111/534page

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本田・十二所付近を通る旧銀山街道の一里塚のあった場所
(人の立っているところ)
本田・十二所付近を通る旧銀山街道の一里塚のあった場所(人の立っているところ)

 それで城下町若松に対してその渡し場に向けて、真渡は下口とか七日町ロといい、蟹川は柳原口、中荒井、二日 町渡しは深川口、川原町は幕の内ロ、三本松は飯寺口、上米塚・徳久が一の堰方面への渡し場として利用されて いた。そのための北会津村の各部落からの細道などが、それぞれの渡し場に通じる慣行的に行きつけたものとし てあった。

 会津藩として駅逓の制を布いたのは正保四年(一六四七) で、 高田町には駅検断もおかれたとある。文政三年(一八二〇)の高 田駅の文書をみると「高田より若松まで百十四文、但大水出たと きは下小松船場まで」この下小松船場は今の三本松附近である。 「高田より大川船場まで七十六文」などとある。

 下荒井に宿駅ができたのは、軽井沢銀山の再開発された元和二 年(一六一六)で、その前年より再開発に着手したらしい。同三 年には毎月三〇〜四〇貫の銀を産したという。主な搬出路は松坂 ・佐賀瀬川・下荒井を通じて城下町に出た。

 鉱山には盛衰があり、寛永十九年(一六四二)飢饉のため休山 したが、正保元年(一六四四)保科正之三度開坑し、享保五年 (一七二〇)頃が最も栄えたらしい。

 下荒井は旧鶴沼川の扇状地地形と、湧水の関係などから、もと もと城廓を北端にして南北に細長くできた村らしいが、宿駅にな  

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