北会津村誌 -112/534page

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下荒井の宿駅定書の板版(天保13年−1842)
下荒井の宿駅定書の板版(天保13年−1842)

った時、東西に主要道路をつくって、その両側に、ほぼ地割して民家が立ち並んだら しい。

 銀山橋の東の十二所新田分に銀山街道の一里塚があったが、これは会津藩で道路整 備をした慶長十三年(一六〇八)頃に構築した、他の一里塚とはちがって、銀山街道 開発にともなって、銀山開発再興の頃できたものと思うが、立派に、両側に対をなし て残っていたというのが、今に跡形も残っていないのは惜しい。

 現在下荒井の旧肝煎荒井宅の乗込み玄関に天保十三年(一八四二)の下荒井村の定 を書いた板版がかけてあるが、この駅逓制のもので、今に残る貴重なものである。荒 井宅ののりこみは改築のためこの調査中取りこわしを始めた。

 6、間びきその他 会津藩は徳川の直藩で、中央政府に参画することが多く、地元 会津藩よりの持出しも多かったためか、相当財政は苦しく、納税も苛酷であったらし い。これは決して会津藩だけにみられた現象ではなく、多かれ少なかれ各藩にもみら れたが、その貧農のしわよせが、生れてくる赤児を間引して食を運ぶ口の数をへらそ うとする結果になっていた。

 これは現在のように産児制限でなく、生れてきた赤児を殺すことであるから勿論人 道上も許すべからざることで、あまりにも哀れな親や家族のしぐさであった。このた め藩の政策としても、極力この弊をなくそうとした。

 その一つに産子認役などという役職を主なる肝煎などに命じて、予め産婦を見廻って登録し、出産期を見はか


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