北会津村誌 -113/534page
らって、産子が果して健在かどうかを確認させた。また天保八年(一八三七)には、間引きによる人口減少を防ぐため「子孫繁昌手引草」を各村々に配布したり して、産子を殺せば地獄に落ち、育てれば子孫繁昌するという理を、図解入りなどで普及させた。
また会津藩の節約令の一つとして、天保十二年(一八四一)住居制限倹約箇条書などを配布している。これを 貞享二年の書上げなどをみると、村の鎮守が嫌いなさるからなどとみえているが、この時の倹約令は、明らかに 「肝煎は持高にかかわらず二間半梁或は三間梁に桁間十三間のこと」とか、一石より五石までの持高の者は「三 間梁又は二間半梁、桁間六間云云」などと細かい箇条で示したりした。また幕末であるが、嘉永二年(一八四九)奉公人のしきせ(四季施)などの達しを出している。
封建的藩政時代であるから、一切は上からの通達として示され、特に農民は、士農工商として、他の職業より 上位には置かれたものの、七:三、六:四などといって、その大半を上納させ「生かさず、殺さず」などの言葉 があったほど、生活程度の低いもので我慢させられていたようである。第三章 明治維新より現在までの治政
一、や あ や あ 騒 動
慶応四年(一八六八)は九月八日で明治と改元された。会津藩はまだ四周を包囲されて総攻撃のまっただ中に あった。若松城への籠城は八月二十三日にはじまり、小松の彼岸獅子を先頭に山川隊長が入城したのも、その後