北会津村誌 -114/534page

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数日である。

 九月二十二日、満一ヵ月の籠城に疲れ果てて、午前十時、追手門に降旗をたてて開城となった。それからは会 津は一時無政府状態の観さえ呈したと思われる。世界大戦に破れた昭和二十年の八月十五日以後のいくらかの期 間の、あの日本の国内事情を、まのあたり思い出してみるのである。

 十月十五日、その発起の場所も、主謀者も明らかではないが、宮の下か、出尻・和泉辺から始まったらしいが 封建社会で直接、部落民に接し、苛酷な上納と取締りに当っていた肝煎、俗に親方とか、おやかっつあまと呼ん でいた人に、村人の反感が、一時に盛上ってきた。そして上納の台帳になっていた水帳とか、戸籍簿の役目をし ていた宗門改めの人別帳などを出させて焼却しようとした。一部ではこれが暴動化して、肝煎の家宅に侵入して 破却・焼却するなどのことが起った。この一群は、順次各部落を廻り、またそこへ他の一群ができて、他の部落 を廻るなど、翌十六日、十七日の三、四日ほどにわたって大変事があった。これを誰れいうとなく、やあやあと 呼んでいる。まとまりがなく、やあやあと騒ぎ廻った暴動のことであろう。

 今にまだ柱に斧や鋸の目がはいったりして傷痕を残している旧家がある。さすが自分の村の肝煎宅には、顔を みられるので襲いにくく、お互、他部落に廻ったりもしたらしい。虚勢を張った肝煎ほど被害は大きく、陰に村 人も助勢したというし、村人より好感をもたれていた民主的な肝煎には、村人が予め来襲を知って、村の入口で 酒などを馳走して、その矛先を緩和し、手心を加えてもらったりもしたと語られている。

 北会津村一帯は暴動の勃発地でもあり、各部落の肝煎が殆ど被害を受けているようである。十六日の夜には高 田・藤川・永井野・赤沢方面に及び、十七日には川路・氷玉・本郷方面を廻った。

 このやあやあは実質三日ほどで、主謀者五、六名が捕われて終った。計画的でもなく、思想的背景の、確固た


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