北会津村誌 -115/534page
る主謀者があったわけでもなく、封建社会の崩壊と、会津の敗戦・落城がもたらした、一時的な無政府状態の人 心動揺が、日頃のうっぷんを高調させた結果のもののようである。二、明治初年の行政の変転
明治維新は鎌倉時代以来の封建制崩壊による新行政系統の建設で、いろいろの思いつきに似た施策が試みられ 幾変転して、漸次安定してきたようである。戊辰の敗戦により政治は新政府にひきつがれ、肝煎制は廃された。会津の一部が福島藩の板倉家に移ったこと もあるが、これもほんの短い期間である。
明けて明治二年若松民政局がおかれ、その治下にはいったが、肝煎制は再び復活、翌三年、郷頭を廃して大肝煎 制が復活された。この年はじめて平民にも姓を許され、屋敷には地番地をつけ、家紋も表示することを認めた。明治四年廃藩置県、全国を三府七十二県とし、会津には若松県ができる。翌五年戸籍簿ができ組制度・肝煎・ 大肝煎制を廃して区制を設け、戸長制が布かれる。六年村を大区・小区制にして番号化した。これで若松県は四 大区となり、北会津村は会津郡で第一大区に編入になる。この年徴兵制が布かれる。また農村にとって最も大 切な地租改正が行なわれ、田畑・宅地・山林・原野など一切の実測絵図を備えることにした。これを字限帳とい った。明治十一年になると、土地の所有主に、それぞれ地券が交附された。これが徴税地租の基礎になっている。
教育制度の発達については別項で詳述するが、明治五年には学制が発布された。八年先にできた大区・小区別により正副区長をおいたが、現在も部落長を区長と呼ぶようになったのは、これ より始まっていると思う。