北会津村誌 -119/534page

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 しかし町村になると、中央政府の指導により、大体は細分化でなく合併・統合による大組織化の方向に向って いる。明治二十二年町村制が施行されて、自治体としての行政単位が、年数を経て、或る程度固定してくると、 これを合併することは必ずしも容易でなく、所有財産の貧富度、村役場・学校への出頭・通勤・通学などの便、 不便から、いろいろな内紛をかもし出すことがないでもない。或は北会津村は、そのにがい体験的なものを宿命 的に負っている町村といい得るかも知れない。その一因は宮川・鶴沼川と大川にはさまれた中州の地域が、東西 の幅からいってはあまり不都合はないようであるが、南北に、自然的境界がないということであろう。

 明治二十二年荒井村・館の内村・川南村が現在の境域とは必ずしも一致しないが成立した。荒井村は最初下荒 井の八十五番地の民家を借りて村役場を開いた。これは三十四年になって十五番地になったが、村役場が新築さ れたのは大正十二年十月である。

 館の内村はやはり最初伊和保甲、即ち中荒井に民家を借りて役場開きをしたが、二十七年には中荒井村に役場 を新築している。

 この二つの村が合併の機運をうみ出したのは、明治二十六年組合村として小学校を建設したことである。学制 の詳細は別項で述べるが、組合立の学校名は最初荒井館の内小学校である。三十五年三月一応組合を発展的解消 して、翌四月から荒井館の内組合立荒井館の内尋常高等小学校という、大変長い名の学校を建てた。この位置は 最初より下荒井村である。これが終戦後の昭和二十八年四月一日二村合併となり、名称を荒館村と変えた。この 年三本松は門田村分より川南村分に編入している。これがただちに川南村との合併の機運となり、三十一年四月 三十日で荒館村は発展的解消となり、新たに北会津村となって発足することになる。

 この主要な原因は中央政府の指導があったためで、昭和二十八年町村合併促進法を制定し、合併促進を積極的に

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