北会津村誌 -120/534page
進めたためである。昭和三十一年五月北会津村発足、荒館村長にひきつづき牧原源一郎は再び当選して村長の椅 子についた。しかしこの合併は、荒館村の場合のように、学校を組合立にするなどの、合併のための準備期間が なかった。川南村を合併したので村役場の位置を中荒井村に移そうとすることに端を発し、感情問題もからんで 行政に混乱を来したことがある。三十一年十一月一日付、合併六ヵ月で上荒井・宗頤がぬけて、本郷町にはいり 役場移転問題はますます混乱した。その責を負うて三十四年十一月牧 原村長は辞任、翌十二月より現村長永島幸一が村政を担当することに なった。旧幕領時代、さらには中世の葦名時代の下荒井の築城時代よ り下荒井と中荒井は、行政の位置として長いいきさつがある。古くより核心的政庁をもたなかった、全く民主的な中州の純農村の 政治が、相次ぐ合併によって、村長選出に如何に苦労してきたかがわ かるように思う。昭和二十八年中央政府の合併促進指導があった際は 会津若松市よりの勧誘は勿論、純農村として新鶴との合併が評論され たり、或は本郷町・会津高田町との交渉もあって、一部、ついには無 理な分村まで生じてしまった。
この生みの悩みを経て、現在、ほぼ大川と宮川・鶴沼川にはさまれ た東西ほぼ四キロ、南北八キロの長方形、面積二八〇・八平方キロの 核心都市をもたない中州の純農村ができあがった。