北会津村誌 -121/534page

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第四章 農業構造改善の構想と実施

一、耕地整理と土地改良

 寛文五年の書上げをみてもわかるように、扇状地の地形であるため河原・湿地の荒蕪地が非常に多く散在して いた。この湿地は湧水が多く葦谷地などとして、殆ど、昔の土地改良技術では、どうともしようがなかったもの で、自然の不毛地として、そっとしておいたらしい。さすが河原地は、その周囲から、逐次、砂礫をだんくらに して寄せ集め、積みあげるなどして、個人或は部落共同などで耕地の拡張をはかってきたらしい。それが宮袋付 近にみられる十三壇などであろう。しかも、ときどきは洪水が思い出したように、このせっかく整地した耕地を 荒し廻ってきたのが、中州開拓の宿命的風土とも考えられてきた。まずその風土改善は明治末期の道路改修から はじめられた。寺堀では明治二十一年から三十五年にわたって部落の主要道路を拡張し、ひきつづき、既に四十 一年から四十三年にかけて、一部の耕地を整理している。

 県の指導或は補助事業としての耕地整理は、主に大正初期からはじまった。古く、盆地周縁の、早く開拓され た地方では、まだ大化時代(元年―六四五)の条里制が会津地方などへ、どのような影響を与えたかの確認は容 易でないが、時代が下って、この余波の整地が全然なかったともいい得ない。

 また仏教文化は比較的早くはいってきたらしく、西麓の雀林の法用寺を中心とした坊などをたくさんもった村 では、部落の屋敷割りと、坊の配置、門前百姓への二土地割りなどを行なった跡がみえる。

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