北会津村誌 -122/534page

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新在家南の旧鶴沼川跡の河原
新在家南の旧鶴沼川跡の河原
 (薄皮まんじゅうのように礫層の上に薄い表土がかむる)

時代は遥かに下るが、蒲生来封の元和末年(九年― 一六二三) からの旧鶴沼川跡の新田開拓には、計画的な開拓と、屋敷割りな ど行なった跡が、新鶴村の新屋敷新田や、十二所新田などにみら れる。宿場割りとしては下荒井などにその跡がうかがわれる。

 大正初期からの耕地整理事業の北会津村地域にはいってきたの は、寺堀などには一二間に二五間の旧式の一反割りもみられるか ら、明治中期の形式で、真渡は大正九年から、出尻は大正十年頃、 宮の下・石原・中里などは何れも大正九、十年頃より二、三年間 で、逐次行なっていった。これには宮の下から新屋敷新田を通り 新屋敷に至る、所謂柳津街道の大改修を大正九、十年に施行して いるので、それにともなったような形のもあった。やはり、扇状 地末端の、北会津村としては、早く開拓された北半が、耕地整 理も早く行なわれているのは、それだけ整地にも逐次手が加えら れてきた証拠であるかも知れない。西麻生の向川原地区は遥かに おくれて昭和三十三年に、西後庵では河川改修、道路のつけかえを兼ねて昭和三十八、九年に行なっている。

 石原と中里の間に耕地整理の記念碑が建っているが、大正十年二月起工、十二年八月竣工とある。中里分で民 有地三〇八反二一一歩が三三四反五二七歩、国有地二四反六二八歩が三二反三〇一歩になったとあるから、増歩 地は三町三反九畝一八歩となる。同じく石原分では民有地三〇六反○〇五歩が、整理後は三三七反四二二歩、国        

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