北会津村誌 -140/534page
佐賀瀬川・下荒井を通って城下町へ通じた。下荒井はその時宿駅に当てられ、道路と村がほぼ現在のような形に つくりかえられたと思われる。ただ現在、道路の排水路は両側にあるが、これは車輛交通の発達してからの近年 の改装で、もとは中央に水路があって、その両側に道路があるように町割りされた。十二所新田の開発新田の町 割りもそうであったし、若松の馬場町・馬喰町なども明治時代までは、道路の中央に堀が通っていた。いま辛う じて猪苗代湖東にある原村の一部にその名残を止めている。この銀山には幾度もの盛衰があり、その時折で、下荒井村の交通量も変り、繁栄にも盛衰があったと思う。本 田の西、十二所分に、道路の北側田圃の中に一里壇という小さな壇があった。これを取りはらっても、その跡が 一区画になって残っていたというが、今、行ってみたら、もうその跡はなかった。その南に、きつね壇というの が一対をなしていた。これは薮になって狐などが住んでいたからの俗称で、壇には榎の古木があったというから 明らかに一里壇の双対のものであったと思う。
会津藩では正之の代の寛文七年(一六六七)四月一日を期して、今まで六町を一里としていた単位を、一里を 三十六町とするよう改めたが、同時に領内の街道に一里塚を築かせている。正之は正保元年(一六六四)三たび この銀山を開坑しているから、一里塚のことは、「家世実紀」には主要道路だけで、銀山街道のことは見えない が、多分この頃つくられたものと思われる。基準は高さ約三メートルに周囲約二〇メートルで、上に榎を植えた とある。塩川町北端の県の史跡として指定した一里塚なども、やはりその頃の構築と思われる。しかし鶴沼川に は銀山橋を架しても、大川に蟹川橋を架することは容易でなく、やはり河原を渡り、板橋を部分的に架していた ことは、後々までつづくことになる。2、高田街道の推移 現在下米塚の東南に川原町という、やや屋並みの揃った部落がある。河原の開拓が進み