北会津村誌 -141/534page
大川からの砂利採取工事などもあって、近頃戸数も増しているが、一時ははんじ物のように取り残されたことが あった。実はこれが三本松に高田橋の固定橋が架せられる前の、高田より城下若松に通じる主要交通路の、繁栄 した渡し場であった。銀山街道は、銀山の開発に関聯した道路で、東麓の若松に対して、西麓新鶴村には中心的な都市や村がない。 むしろ蟹川・川崎より分れた白山街道の方が、新鶴村の主要部新屋敷にも通じ、また和泉・開津を通って坂下方 面にも行ける、比較的交通量の多い道路であった。
この川原町渡しは、北会津村の南半、旧川南村の主要横断交通路というよりも、高田へ通じる、昔から行商人 などの繁く通った道路であった。高田橋が架せられてからは急に衰え、開田の進んだためにもよるが、昔の道路 の面影さえも全く失われた、所謂「跡形もなくなった昔の交通路」となってしまった。若松よりは材木町の中頃から西に折れ、住吉神社わきを通って川原町渡しにかかり、両堂の村北を通って、松 野・古麻生にかかり、大島の南を横切って濁川の橋を渡り、宮川橋を経て高田の北端に出ていた。現在の舗装さ れた高田街道は高田橋架橋以来のものである。
ニ、大川・鶴沼川の舟橋時代
村の西縁を流れる宮川・鶴沼川は、洪水による災害の頻度は決して少なくないが、川幅が狭いため、架橋は相 当昔よりあって、主として城下町に通じるためであった。その主なものでは、各部落は渡橋の負担がかかり、さ らに橋賃といって、渡る個人からもいくらかを徴集していた。これは風土記などにも詳細に記録されている。宮 の下より新屋敷新田に渡る新田橋では、橋場という橋賃徴集の店が両側にあって、大正の初期までとっていた。