北会津村誌 -142/534page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

勿論蟹川その他の橋場小屋でも固定架橋以前は徴集していた。

 宮川・鶴沼川の架橋の主なものは上流の宮川橋、銀山街道の銀山橋、それに新田橋の三つであったが、その他 に麻生新田、天満より佐布川に渡るものがあった。これは天満などが佐布川の端村として開拓されたいきさつか らも充分考えられる。

 つぎは宮袋より二軒、境野に渡るもので、これも古くから、相当交通量が多かったものである。中荒井に郡役 所があり、社倉があったので、西麓の雀林・八木沢方面の幕府直領の御蔵入からも米が運ばれてきたことがある が、その主な渡し場であった。それに北会津村の北端になるが、和泉より和泉新田に渡る、俗に開津橋と呼んだ 橋が、相当古くから架せられていた。和泉新田が和泉の地先開墾部落であることや、旧中荒井組が、和泉新田・ 沢田・蕎野目と西に行政区が延びていたことからも充分察しられる。

 大川の渡橋の上流のものは上米塚で、寛文十年(一六七〇)八月三十日付で上米塚など八ヵ所に船渡し場の定 が出されたことが、「家世実紀」にみえている。それには次のようにある。

 「上米塚村渡船定之条々、其一、諸奉公人之外十才已上之男女、不依何者、老人に付代四文づつ、背負荷之者 同前に可取之候、但洪水之節は、老人に付八文づつ、背負荷同前之旨、其二、荷物計壱駄に付六文、洪水之節 者拾弐文可取之、垂懸荷主共に同前之旨、其三、他国共に諸奉公人は船賃取間敷旨、其四、立帰之者如前々帰 之船賃取間敷旨、其五、近郷より前々償ひ取来候所之分向後可為同前旨、其六、当村高之内百八名之人足役、 前々之通全免除之旨、其七、到冬中橋懸候入用材木は、山本に而渡来候、藁、縄、俵は、海道筋之郷村拾壱ヶ 村より出之、材木運送は、橋下之郷村拾ヶ村より勤来候由向後前々之通たるべき旨、其八、水増船越之節は、 当村 於飯寺村往還共に馬を継、駄賃銭取来候義前々之通たるべき旨、其九、船立置侯共水浅く、歩越致自由

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は福島県北会津村誌編纂委員会に帰属します。
福島県北会津村誌編纂委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。