北会津村誌 -143/534page

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候もの於在之は、任其意人馬共に難渋申懸間敷旨、右之条々柏守之如前々往還無滞可相勤候、若於令違背者応 其の品可行曲事者也」
この八ヵ所には天満もあるが、これほ蟹川渡しのことで、内容は、古くからの慣習をそのまま引きついだもので ほぼ似た定めであった。この上米塚渡船は、古く高田より橋爪・上荒井を通って上荒井新田・上米塚に出て渡っ たが、本郷町よりの主な交通路にも当っていた。これも高田橋の架橋により北に寄ったことになる。

 三本松の高田橋付近にも渡し場はあった。三本松が繁栄して部落をなしたのはこの架橋後の近年のことで、つ い先年まで門田村に属していた。この渡し場は下小松舟渡と呼んでいた。幕の内には「会津農書」を残した佐瀬 治右ヱ門がいるが、また「会津幕之内誌」というのを残している。その元禄四年(一六九一)の項をみると、下 小松舟渡について「幕の内村の者は舟賃不掛渡り来候、昔は飯寺、幕の内の界取上石道を通り候故、今之舟渡よ りは川下也、川の西向は下小松分、東は幕の内分也、今川上へ舟場替へ候へ共、右の例を以て舟賃不懸舟祭の時 は舟祝餞少宛出侯」とある。

 つぎが既に述べた川原町の高田街道と呼んだ主要街道になるが、これについても、同じ幕之内誌に「幕の内よ り南高田街道、但道より南は西柳原分、北は幕の内分の所有、此道橋普請は、幕の内より出合普請致来侯」と ある。

 つづいて北に中荒井より幕の内を経て城下町に通じる舟渡しがあった。中荒井に郡役所があった時代には、相 当重要な渡し場であったと思われる。これについても幕の内誌に詳細述べてある。

 「一、幕内より北之中荒井道筋道北は深川分、南は幕内分之所有、両村相談を以、深川宮之南堰、堀之橋より  東側此橋共に深川に而普請筈、此掘より西之分は道、橋共に幕内に而普請致筈に相定置候。

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