北会津村誌 -144/534page

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旧高田街道、船橋時代の橋場町づくりの川原町
旧高田街道、船橋時代の橋場町づくりの川原町

一、中荒井道大川之河除土手西之方幕内、鍛冶屋敷之界石川原故、明 白に不知候故、両村立合相談を以、道を界にして、北は鍛冶屋敷分、 南は幕内方に定申、中荒井舟場之渡し普請致時は、大川西向は二日町 分、東端は鍛冶屋敷、慕内にて普請仕り候。
一、中荒井舟渡、幕内之者は、舟賃不懸渡り来候、舟場大川西向は二 日町分、東向は幕内分也、舟祭の時は舟祝ひ銭少宛出候。
この舟渡し場は蟹川橋が固定板橋になる大正の中頃まであったので、渡 ったことを覚えている人は、まだ少なくない。厚さ二寸、長さ五間、二 尺幅の立派な橋板があって、荷車ができてからは、これを三枚渡して通 っていたのを覚えている。それより前は米を二俵つけて馬で運んだので 幅はせまかった。

 この中荒井橋場は、俗に八町といわれたほど大川の河幅の最も広い地 域で、その中の幾筋かに、このような橋をかけておいたのであるが、洪水に対しては弱く、増水すると橋板に綱 をつけて杭にしばりつけておく。橋が流されれば船の綱越しとなる。一条幸馬という爺さんが、十七歳の時から 七十歳くらいまで船越しを受持っていたと、語り草になって残っている。

一 船賃のことは風土記その他にみえるが、このための橋場小屋があり、中荒井村で毎年せりにかけて、六人がせ り落して、組をつくって当っていた。大正五、六年で終ったが、その頃で一回二銭であったと覚えている。

 つぎは蟹川の渡し場で、現在の蟹川橋よりやや下流にあり、形式は中荒井渡と殆ど同じであった。さらに下


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