北会津村誌 -150/534page

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農業改善事業の中に立つ、そのシンボルのような、米麦流通合理化モデルプラント
農業改善事業の中に立つ、そのシンボルのような、米麦流通合理化モデルプラント

てある。館の内村、川南村でもその頃、同様のものが発足してい ると思うが、今ここに資料がないので、主に荒井村のものについ て述べておこうと思う。

 その初代組合長は、当時村長であった鈴木清作である。その順 調の発達をみせたかにみえたのが、昭和九年の東北地方の冷害で 組合も自由経済の嵐には勝てなくなり、そのあおりを食い、倒産 寸前に追いこまれ、解散か再建かで一週間も会議の連続があった こともあるという。まがりなりに再建に踏み切ったが、それに努 力した人として越智寅一の名などが語られている。この時代には 金庫には二十五銭しかない日があったとか、資金繰りが如何に難 渋であったかを物語っている。

 昭和十九年三月二十六日、戦争がたけなわになって、主食の米 の供出割当制などが強化されるにつれ、政府への協力というより むしろ末端の御用立て的な立場におかれて、これが「農業会」と いう名で改組された。昭和二十年八月十五日終戦となり、GHQ は、農業会が戦争に協力したということで解散を命じられ、昭和 二十三年五月で農業会は終った。

 しかしこれは一応の発展的解散であって、ただちに同年同月の  


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