北会津村誌 -151/534page
十一日付で「荒井村農業協同組合」として発足し、その設立発起人であった一牛善作が初代組合長となり、翌年 改選により越智寅一が、再び改組後の組合長となった。昭和三十七年八月一日、既に北会津村が合併成立しているので、荒井・館の内・川南の旧三ヵ村の農協を合併 して、現在の「北会津村農業協同組合」が誕生した。組合員は実に一、六一三名に達する。
会津盆地の中にそびえたつ、このモデルプラントの塔は、北会津村が、会津一帯にさきがけて農村建設のため に建てた、先駆の希望に輝くのろしのように、盆地の田園に高高と掲げられている。
北会津村は農業の大政善事業が既に発足しているので、農協はその背景として協力、昭和四十一年には、当時全 国十三ヵ所の一といわれる「米麦生産流通合理化モデルプラント」なる偉大な穀納塔が建設された。その年ここ に格納した政府売渡数量は実に一〇万俵余に達し、名実共に福島県第一位の農協にまで発展した観がある。この 総経費は実に四、六六三万円に達した。第九章 教育制度の発達
一、私 塾 時 代
明治以後学校制度が漸次確立されてくると、教育は挙げて学校の独占のように思われ勝ちである。それでは学 校のなかった時代には教育はなかったかとなると、そう思う人もあまりないのであろう。現在ほど両親の教育の 権威が失墜したことほないなどと極言する人もあるが、幼児の教育の全責任は両親が負うている。教育ママなど