北会津村誌 -152/534page
の言葉は、都市の一部においての、行き過ぎた、時代相の一つのタイプともみられるが、両親はやはり子供の正 しい教育の全責任者であることに間違いはない。家庭教育には専ら両親が当っていたことは、古今東西の差はない。日本ではこれを躾などといった。家格によ り、貧富の差によって躾の異なっていた観があった点だけは反省されてよいかも知れない。
社会教育は若連中・若者組、後の青年会・青年団の役割りが大きかった。村人として住みつくための社会教育 青年の性教育の一部さえ果していた観がある。ただ読み書きの技術的なものになると、やはり専門的なものが必要になるので、寺小屋などともいわれ、また 本習い、そろばん習い、針習いなどといって私塾的なものが、町場は勿論、農村にも、僧侶、太夫、肝煎の旦那 その他篤学者があって、部落の人は勿論、近村の人々まで、主に農閑期を利用して通っていた。
北会津村には核心都市がないため、下荒井・宮の下・中荒井・下小松・上荒井などの本習い、手習い、これは 習字のことであるが、その他針習いなどの師匠の教育の果した役割りは大きかった。本読みというのは、名を漢 学習いといったほど、日本外史・近古史談などからはいって、論語・孟子などの四書五経に至るまでの漢文を、 素読と共に、東洋、特に日本の倫理・道徳の基本としても習うのが主幹をなしていたようである。下荒井には明治から大正にかけて、藤山という師匠がいて、近村、荒井館の内は勿論、新鶴村方面からも来て いたので、その教えを受けた記憶をもつ人はまだ多かろうと思う。古麻生にも漢文の素読を教える人があった。 明治時代であるが、宮の下に二瓶という書道の師匠があって、その頌徳碑をみると、門人ほぼ一五〇人の名がつ らねてある。橋爪にも住職で漢文の素読を教える人があり、川南方面の人が通っていた。真渡・天満などにも師 匠があったと伝えている。この他、若松や本郷・高田などにも師匠がいたので、近くの村々からは、雪道をこい