北会津村誌 -153/534page

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で通ったものである。これが針習いになると、幾冬習ったということが、嫁入り仕度のようになって、町場に通 うのも、その修業のみえの一つのようになっていた観があった。

 明治初年学校教育が始まっても、これがまだ慣行として残っていたためと、小学校教育の低いものだけが最初 実施されたから、青年教育は、この漢文の素読を中心とする本習いとしてつづいていたようである。これが学校 に通う子供たちにも影響したものか、秋から冬にかけ、この夜長には、夜学とかいって、特定の家か廻り宿で、 机を持ちよって、その家主が世話するか、上級生の指導で、予習・復習のような勉強を、けなげにも行なってい たのを覚えている人はまだ多かろう。これが入学受験のための私塾通いのように、ひずんできたのは、果して教 育の進歩といい得るかどうか、考えあぐねている古老もあろうかと思われる。

ニ、小学校教育の発達と変遷

 1、荒井館の内村小学校の起源と発達 明治五年(一八七二) 八月二日、太政官第二十四号告諭によって、は じめて学制が発布された。翌六年五月二十五日、下荒井では蓮華寺を借りて、開明小学校と名づけ、初めて普通 の小学校を創設した。

 これにならった村は多く、現在中里にその時の小学校舎に用いた建物というのが大江貞治宅の小屋になって残 っているが、四間に三間のもので、石原の宝蔵院の前に、小学校として建てたものと伝えるから、或は明治六年 より後れて、明治二十年頃に荒井村として、統合小学校が新築されるちょっと前頃のものではないかと思われる。 その当時各部落或は数部落連合して、寺院や民家を借りて、とりあえず開校した事情は、もう詳細にはわかって いない。


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