北会津村誌 -154/534page

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中里に残るもので、石原村にあった明治初年の小学校舎の建物
中里に残るもので、石原村にあった明治初年の小学校舎の建物

 年次を追うて、下荒井小学校の発達経過をたどってみると、一ヵ月足 らずで明治六年六月には下荒井小学校と改称、十五年九月下荒井小学校 を中石村と二方村に分割したから、先の石原のは、その時の分校かとも 思う。十七年九月六日蓮華寺が火災になって焼失、とりあえず下荒井の 菊地鉄太郎宅を当てるとある。なおこれでは狭隘なので、冬分校に尋常 科三年以下を通学させた。

 明治二十年十一月十七日下荒井に新校舎落成、これが現在の下荒井小 学校である。明治二十二年町村制の施行により、下荒井他六ヵ村が、合 して荒井村となるが、この際、下米塚を川南村に編入させて、伊和保他 四ヵ村で館の内村をつくっている。それぞれ一応それまでの小学校を引 継いだが、この二ヵ村はこみ入っていて、通学その他本質的には分割困 難という事情があり、二十六年、村の自治体はそのままに残し、学校の み荒井・館の内組合村立とし、学校の名称も荒井館の内尋常小学校とした。これが約一〇年ほどつづき、三十五 年三月三十一日は、高等小学校設置のため組織替えして、翌四月一日より荒井館の内組合立荒井館の内尋常高等 小学校という、大変長い名称のものとなった。この時は高等科は三カ年であったが、翌三十六年より修業年限が 四ヵ年と改まっている。

 明治四十一年四月一日よりの小学校令の改正によって、尋常科の修業年限は六ヵ年、高等科が二ヵ年になっ た。その後校舎の新築・増築がつづき、昭和九年、同十一年の敷地拡張で、旧城跡の遺塁は大体崩されてしまっ           

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