北会津村誌 -155/534page

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 昭和十六年、戦時体制が教育にも及び、同年四月一日付小学校令を改めて国民学校となった。これが終戦後の 昭和二十二年に再び小学校の名称に戻ることになる。

 この小学校の発達に沿って、小学校卒業後の農村に残る人々の教育も考えられ、明治三十五年実業補習学校令 が発布、大正元年にはこれが荒井・館の内農業補習学校となった。

 しかし軍縮などの国際事情が、この末端教育にも波及してきて、大正十五年七月一日に青年訓練所なるものが 開設され、昭和九年十月には、補習学校青年訓練所の専用校舎を建築するまでになった。これが翌十年七月一日 からの青年学校となって、他の教科を逐次圧縮し、教練を主とするように、もりあげられてくることになった。 これは昭和二十年の敗戦により、完全に終末を告げた観がある。

 2、川南村小学校の発達 川南村でも明治五年の学制発布によって発足しているが、荒井村より一足早く、同 年十一月元十六区長小川広次が、下小松の常徳寺を借りて小学校を始めている。その名称は今特に聞いていな い。これは同九年八月三十日同村の旧米倉を改装して移転、古館小学校と名づけている。同十一年上荒井新田と 上米塚が分離して、特に上米塚小学校を設置した。しかし十九年には小学校令の改正にともなって、古館・上米 塚の二校が再び合併、小松に古館尋常小学校として発足、翌二十年小学校を改築した。これが現在の小松にある 小学校の前身で、やはり古い館跡を整地しているのは下荒井と似ている。ただ上荒井新田・上米塚・麻島の三村 はあまりに児童通学に遠いからと、一、二年上荒井新田と麻島に仮教室を設けていたことがある。

 明治二十六年学校教育令の改正によって川南尋常小学校となり、二十九年三ヵ年の高等科併置、三十六年これ を四ヵ年に改めた。四十一年改築校舎を全面新築し、小学校令の改正により同年尋常科六年、高等科二年の


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