北会津村誌 -164/534page
川南村を含んだ北会津村としては、総計としては文化六年の九八九戸を基礎にして取扱ってみるほかないが、 明治八年に九八六戸と殆ど変りなく、昭和四十一年には一、三六六戸と飛躍的発達をみせている。この顕著な一 つは三本松の高田橋畔の村が門田村より分れて川南村、つづいて北会津村に併合し、交通の便を得て一つの村を つくるまでに発展したことと、会津本郷駅が開設されて後の一帯の発達である。この間、旧中荒井組内でも急に 戸数は増してきているが、これはまだ寛文五年の戸数を充していないのに対して、川南村分の方は交通の発達に よる発展が、ややめざましかったようにさえみえる。ただ男女別人口を比較すると、寛文五年などは女の数が非 常に少ないのに、昭和四十一年には四二三人も多い。これは出生率からみても既に男子が少ないというが、その 主因は男の出稼ぎなどによる離郷であろう。ニ、現在の経済事情
村の基本的性格は異なっていないが、旧中荒井組の大沼郡新鶴村に属する分を切り離して荒井村として独立し 館の内村を併せて荒館村となり、川南村の大半を併せて北会津村として成長してきた過程からみて、これを総合 的に経済的発展過程まで考察することは、地域対称に広狭の変化があって容易でない。その上貨幣単位及び価値 は旧幕時代は勿論、近年になっても、戦後のインフレと平価切下げなどによる変動で、経済史的にみた史的検討 は困難である。昭和三十六年中荒井地区を農業構造改善事業の手初めとした、この画期的大事業には、一応経済事情の基本的 調査を必要としたので、主に昭和三十八年度に成った事業計画書にもとづいて、その大要を述べてみようと思う。