北会津村誌 -176/534page

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落が幾つも発達して、下荒井・中荒井・上荒井と分けて呼ぶようになったに違いない。それを一つの部落の名称 から拡大して、或る地域、特に政治的区画を指すようになると、既に地名の起原になった湧水との関係は薄れて くる。

 中荒井村が旧鶴沼川、現在大川と呼び、或は官庁で阿賀川という名で統一している大氾濫原の真ただ中、即ち 中州に、相当古くより人々の住みついた所であろうことは想像される。その中州も、阿賀川大扇状地の輪中とし ては、最も大きく、早くより干上った地域ではなかろうかと思われる。

 寛文五年(一六六五)と貞享二年(一六八五)の書上帳の写しが残っているが、今から約三〇〇年前には北河 原・小林河原・御伊勢河原・関根河原・宮在家河原・げんちゃう河原・ごぜん河原など大小七つの河原のあった ことが記してある。

 この中の村南三町余にあった御膳河原というのは、既に南北三十五間、東西九間の小さい草刈り場になってい たらしいが、文化六年(一八〇九)の新編会津風土記には、昔は大きな河原であり、鶴沼川(現在の大川)の水 道が変じて、後に田圃に開き、今僅に残っているに過ぎないと説明してある。

 この中州に、現在も決して洪水がやってこないとは言いきれない。大正二年の洪水の詳細は既に洪水の項で述 べたが、高田橋より上流で土堤が決潰し、三本松・下米塚を押切って中荒井村にまともに襲い、村中の道路で四 〇〜五〇センチもの水深があったことがある。

 村東には現在も土堤の名残を止め、特に旧郷頭小森健次宅の東側に二重の土堤がある。

 村の西南旧鶴沼川跡とみられる御膳河原などに、近年まで旧河道の名残を止め、村東の低地は近年まで大川の 氾濫がつづき、南の羽黒山より堰きあげた思い堀が、一筋の大川の旧河道に沿うもので、中州に発達した部落の

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