北会津村誌 -178/534page

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中荒井村旧肝煎千葉家文書(百姓、肝煎―安永3年―1774頃は故あって
一条をなのる、それに中荒井組郷頭小森与平の添書がある)
中荒井村旧肝煎千葉家文書(百姓、肝煎―安永3年―1774頃は故あって一条をなのる、それに中荒井組郷頭小森与平の添書がある

 安永三年(一七七四)十一月の養子縁組に関する代官所へ提 出した文書の写しが旧肝煎宅にあるが、千葉宅は一時一条を名 のったことがあり、丁度その時代がそうであったので、中荒井 村は百姓の代表に肝煎一条久左ヱ門の名がみえ、その添書きに 中荒井組郷頭小森輿平とあるから、中荒井組の各肝煎を統べる 郷頭が、中荒井村にあったことは確かである。

 この小森・千葉両宅のこの村に住みついた来由を知りたいが 明確なことはわからない。千葉宅の系図書なども見たが、時胤 千葉大輔は芦名氏と久縁があり、平田氏の世話になって、芦名 家に仕え、荒井村館に住し、千葉寺を建立したとみえている。 その逝去が嘉吉二年(一四四二)四月九日、この時代に、既に 村が出来ていたことは疑わしくない。むしろ村はそれよりも古 く、既に出来ているとも思われる。

 現在も館の内という一廓が村中にある。新編風土記によると 東西二〇間、南北一町余とある。家には盛衰・興亡が繁くやっ てくる。肝煎屋敷は現在の館の内にはない。村にも盛衰はある が家より繁くはない。寛文五年(一六六五)の書上げには家数 七九、かまど九九、男二五〇人、女二〇三人とある。家数とか

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