北会津村誌 -179/534page
中荒井村見取図 まどの間に二〇のひらきがあり、当時は一般に女 の人口は低かったが、それでも五〇人の開きは大 きい。やはり中荒井組の中心部落としての役職、 繁栄の何かがあったことを思わせる。文化六年 (一八〇九)にはそれが五一戸に減り、明治八年 (一八七五)にも五三戸とあまりふえていない。 これが近年再び増加の傾向にあり、昭和四十二年 当初に六七戸にまでなっているが、寛文の戸数に はまだ達しない。新編風土記にはさらに、村東に郡役所があり、 郡奉行のいたことが記してある。そして「南青木 組飯寺村、高久組高久村、坂下組坂下村、高田村 の代官これに隷す」とある。あまり永い期間では なかったと思うが、会津盆地のほぼ中央を占める 地理的位置が、一時、中荒井組だけでなく、もっ と広い地域の政治の中心に充てられたこともあっ たらしい。
中荒井組を担当する代官のいたことのあるのは