北会津村誌 -180/534page
小森宅南に、今も代官屋敷という名称があるので察しられる。一時館の内の村役場もそこにあった。この代官屋 敷につづいて米倉が二棟あったことは、新編風土記にもみえている。一棟は中荒井組のものであったが、他の一 棟は社倉で、八木沢辺の御蔵入地域からも米が運ばれてきたと、古老は語り伝えている。大きさは七間半と十五 間半のもので、俗には仕納倉といい、米倉番の家が東向きになっていたという。交通路網が現在のような整備に はいらない以前は、地理的に中荒井村の占める位置が価値が高かったように思われる。3、神社と寺院 館の内の東北隅に土堤跡が残り、稲荷が祭ってある。館の内の稲荷というそうである。貞享 二年(一六八五)の書上げにも、「郷頭次郎兵衛屋敷に、古来より崇 置」とある。旧豪族屋敷に祭られたものであろう。氏神、部落の鎮守神 として発達してきた一連たるものはわからない。
部落の鎮守社は古くより、部落の西南二町にあった諏訪神社であった らしい。貞享二年(一六八九)相殿十一社、文化六年の新編風土記にも 相殿十一座とあり、村中にあった白幡・熊野・六所神・羽黒神などを古 くから集めて合祀してある。また二日町から伊勢宮・稲荷神なども持っ てきている。
近年この諏訪神社の位置も、耕地の整理上移転して、新に村近くに社 地を移したので、村の来由との関係はさらにわからなくなっている。 最初より村の鎮守が部落より離れてあったものか。これは下荒井村の鎮 守なども同様であるが、村の水上の河原に沿う清水の湧き出る森の辺に