北会津村誌 -189/534page

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僅かに残れりと云、側に旗明神の旧趾もあり。佐原十郎左ヱ門尉義連、始めて此国に下向の時、幕を打ち、旗を立て昼餉せし所と云伝う。高久村、幕之内村も本は此辺にありしと云。
 館跡 村中にあり、東西二十間余、南北一町余、民屋となり、土手、堀の形残れり。何人の住せし処なることをしらず。
 石仏 村西一町二十間にあり。高さ四尺余、田畝の中に立てり。昔より石仏と称すれども来由をしらず。
 壇四 村より辰の方五町にあり、高さ一丈ばかり、周四十間ばかり、東西に並べり。四壇と称す。慶長の頃逆修念仏の為に築きしと云。
 褒善 市太郎 十二年の間、高久組深川村新助が家に奉公す。一年、新助が家内温疫の病に染みしに、市太郎医薬田畠の事まで一人にて心を尽しければ、主人其年の冬暇を与て家に帰さんとす。市太郎主人の病後温泉に浴すべき由聞しかば、其後に暇を賜わるべしとて固く辞しければ、新助益々其志に感じ、其言に従い、次の年暇を与えき。天明六年米を与て賞せり。
 忠義者清次郎 延享二年褒賞して米を与えり。
 忠義者かむ 此村の農民金之丞の妻なり。明和五年褒賞して同上。

二、二日町村
1、村の名称と古い位置 二日町という名は昔市日をもったところをまちとも呼んでいたから、毎月二日を市日としたところではないかと思う。大川は旧鶴沼川で、上流は田島の方と羽鳥の方から流れてきて、応永二十六年(一四一九)頃まで岩崎山を離れると西北に向きをかえ、現在の大川の流路には、蟹川とか、木戸堀・佐野堀時に黒河川(今の湯川)が氾濫して流れ出ることがあっても、現在のような、五〇〇メートルを越すような荒れた河原ではなかったらしい。その小川を越えて、現在会津若松市に包含されている旧神指村の如来堂辺の部落は旧下荒井に属していたり、二日町も文禄三年(一五九四)七月の蒲生時代の高目録には「門田郡二日町」とみえ

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