北会津村誌 -190/534page
二日町の白山神社全景 るから、対岸の村に属していたこともあるかにみえる。
城下町が形成されたのは、その頃の蒲生氏によるものであるから、市日のある市が立ったのもこの頃かと思うが、現在まだその確証は掴み得ないで、推測の域を出ない。
大川が現在の地域に流路を移してからは、その流域のたくさんの村が洪水に悩まされ、その度重なる被害に、ついに村の位置を移すようになっているのも多い。対岸の幕の内、鍛治屋敷なども、新編会津風土記に、村の位置を移したことが記してある。
二日町にもその伝承があるし、村の東端の一段低い地域は、もと古川と呼んだ流域で、洪水で大川を押切ってここを流れるようになったことが、寛文五年(一六六五)の書上げにみえている。さらにその頃の村は、二日町は十軒位で、端村に下二日町といって、十一軒の村があったとある。文化六年(一八〇九)の風土記では既に下二日町の名は消えて、併せて家数二十三軒とみえる。この大川の氾濫による村の西への移動が、中荒井村や下米塚村とに境界争いを起したことは当然ともいい得よう。
2、境界争いの証跡四つ壇 新編会津風土記の中荒井村の項に既述したように、四つ壇というのがあり「慶長の頃逆修念仏の為に築きしと云」とある。二日町にも、蟹川に固定橋が架せられるまでは舟橋があった。この舟橋は中荒井村のもので、二日町の南に、中荒井より、旧舟橋へ通じる道の跡が今もよく残っている。この道の北側に沿うて、最も西のものが、径八