北会津村誌 -192/534page
下米塚新田の境界争いの文書 書もみえる。
覚
当村端口出新田北中荒井而下米塚境界之儀二日町前中荒井街道より上ハ藤太新田田を割地高にて中荒井街道地高の面より辰迄に当り水門の東に榎木を置て右榎木見通にて東は中荒井分西は下米塚分之由中荒井村総人中申にて□に相右方立合之上境相定申候間以来右に準て相済居候依而為後年一書記し置申候事
慶応二寅年四月二十五日
「元和八年(一六二二)御先代宰相公様より中荒井四つ壇並に惣川原被置候、其外近日拾五ヶ村の親方に御制札にて被下しに、今所持仕候(中略)慶応二年寅四月二十五日」
下米塚・中荒井・二日町の境界が争われたことは飯寺・幕の内・鍛治屋敷の河道変遷による境界争いと共に、各部落の古老に、今もなおよく語り継がれているところである。
なお上人壇というのが村西にあったというが、現在は竹藪になって形はなく、地名として伝えるのみで、昔上
下米塚新田と二日町の境界壇