北会津村誌 -194/534page
二日町の架橋碑と湯殿山古峯神社の供養碑 日本系統、或は遥に大陸文化が朝鮮を経て裏日本の海岸にたどりついたともいわれるもの、特に北会津村では、水につく神のように考えられ、扇状地末端の湧水地によく祭られている特色をもっている。雀宮は現在新田二郎屋敷内に、神明神社は手代木幸一の屋敷内に祭られている。
ここでは大川の河原の湧水や、洪水の災害除けの神として白山神社が祭られており、この水を鎮めるに火の神をもってするという意味かどうか、村の青年によって、秋の白山神社祭礼に花火を奉納することで、近隣に知られていた。もと城下若松のえびす屋から伝授されたと伝え、一子相伝の秘術とされて、ごま火薬などの製法も秘伝されてきている。大正時代にはまた新潟より花火師を招いて花火の製法なども伝授されたことがある。けやき材の中央に穴をあけ、竹のたがを幾重にもかけた、花火上げの筒が六本も保存してある。その最大尺玉用のは長さ二・七メートル、内径二七、外径四〇セソチの立派なものである。不幸昭和二十五年九月十七日の晩、花火製法に村人が集った際、あやまって爆発、村人一人死亡、けが人数人を出したので、それ以後中止している。これも水と関係する伝承である。
この境内を廻ってみると、元文六年(一七四一)の庚申供養塔や、延享二年(一七四五)四月八日の念仏講中の供養碑などがあって、決して新しい村ではないことを物語っている。
4、部落の構成 大川の氾濫で村を移したり、合併したり、四周の村々とたえず境界争いをしてきたことは、部落の盛哀、構成なりが複雑であることを思わせる。白山神社の中荒井への併祀は村人の意志でなかったようで