北会津村誌 -198/534page

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界に至る。其村まで九町、西二町二十八間中荒井村の境に至る。其村まで四町、南二町三間、本郡橋爪組下米塚村の界に至る。其村は巳午に当り十町十間余。北四町十間蟹川村の境に至る。其村は亥に当り六町三十間余、又辰の方六町、高久組幕内村の界に至る。其村まで十三町四十間余。
 ○山川 鶴沼川、俗に大川と云、下同、村東にあり。幕内村の境内より来り、北に流るること十一町五十間余、蟹川村の境内に入る。
 ○関梁 船渡場 村東にて鶴沼川を渡し、府下に通る道なり。
 ○褒善 善兵ヱ 此村の肝煎なり。一歳鶴沼川洪水し、川除土手破れ、下米塚村端村出新田の民居次第にかけいらんとす。村民皆地高き処に集り二、三日及ぶ。水かさ弥々増り、舟も通わず、食物もなければ、皆々飢にのぞむ。善兵ヱ食物を携え漲る流れを押渡り、飢人をすくい、又近村の渡舟を得て、人馬共に下小松村に引取りけり。宝暦八年(一七五八)銭を与て賞せり。

 三 東麻生村
 1、多賀神社の由来と村の発達 寛文五年(一六六五)、貞享二年(一六八五)の書上げにも、文化六年(一八〇九)の風土記にも多賀神社の名はみえず感応神社とある。村南二町三十間にあるが、今度の構造改善で村中に移転してくるとて、境内の樹木は伐払ってしまった。もともとは村端れにあったともいい、おいせの宮という字名がついていて、下肥をかけない忌地となっている。もともと大神宮即ちおいせ様がここにあって、感応神社に併祀したともいっているが、伝承だけで確認は容易でない。
 下小松の感応神社を多賀神社と改めたように、村人も小松の多賀神社と同じだといっている。村の発達と共に関連性があるかも知れない。

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