北会津村誌 -203/534page
造改善が行なわれると、どのくらいまで、その古い流路の痕跡がこの大地から消しとられるかは、一つの期待でもある。
昔の人は、その流路をたどって用水堀を掘り、湧水をひいて灌概し、なお薄皮まんじゅうのように表土の薄い土地は湿地・河原地・雑木林として残し、逐次その四周から、一歩一歩開拓を進めてきたようである。そして、時ならぬ洪水が襲うてきては、旧流路に名残を惜しむように、それを開拓者に誇示するがように、幾度も荒れ狂うていたようである。
宮袋という村の名の起源・解説は聞いたことがないが、鶴沼川に架した橋の東ふもとに立ってみると、西麻生の南を流れた旧鶴沼川が、天満の東を放流して、この橋の上か下の附近で宮川に合流し、ここより下流を世の人は鶴沼川と呼んだであろうことが、大地にはっきりと記録しているようにさえみえる。
宮袋の西北隅に鎮守の富士神社の森が繁っているが、古い館跡を
宮袋の道祖大神
宮袋の富士神社境内の古峯神社と、ほうそう神の小祠(いじこに飯を供え、さい銭をうける)